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Essay

北陽一郎のEssayを集めました。




渋さ知らズは、東洋的なバンドである (2000.10.30)
渋さ知らズの演奏は、ラグビーをやっているようである (2000.10.30)
即興演奏と音層 (2000.10.30)
あなたも渋さに参加しよう! (2000.11.04)
ベートーヴェン友の会 (2001.01.27)
テント渋さの効用 (2001.02.27)
オブジェクト指向 (2001.03.23)
ヒクソン・グレーシー(2001.03.23)
マスタとアーティスト(2001.04.10)
数学(2001.05.28)
風の音(2002.02.10)
地味な演奏(2002.02.12)
ヨガ・気功のお勧め(2002.02.20)
渋さ知らズのサッカー理論(2002.02.26)
即興演奏について(2002.08.26)
Ninja Jockeyの音楽(2002.12.23)
即興演奏(2005.04.02)
死について(2007.05.24)
いじめについて思うこと(2007.05.25)
最近の刑事裁判について(2007.05.30)
介護・医療の人手不足(2007.05.30)


渋さ知らズは東洋的なバンドである

なぜ渋さは東洋的なバンドなのか?
これは、日本庭園と西洋庭園の比較をするとわかりやすい。
西洋庭園は、設計図があるため、どの場所であろうとほぼ設計者が思った通りのものができる。
ところが、日本庭園は、設計図がなく、場所の様子で異なったものができる。日本庭園の作成者は、庭園をつくる時、まず石を1つ置いてみて次に置く石の場所を考えるそうだ。
その場所にあったもっとも自然な石の配置を考えるのである。
渋さも日本庭園のように作っている。場所や観客の様子でその時もっとも自然な音を出しているのである。渋さは、テーマ以外譜面がない。ソロの順番が決まっていないことが多い。東洋の考え方は自然を中心にする考えかたのようだ。インドのラーガも同様に考えるらしい。西洋が人中心なのに対して、東洋は自然中心ということができる。渋さは、自然中心の音楽をしているから東洋的なバンドといえるのである。
自然中心の音楽は、もちろん渋さに限ったものではない。日本のフリージャズの多くは自然中心の音楽をしている。
なお、日本のフリージャズの起源は、実は能楽にあるのではないかと思っている。能楽は、自然中心の音楽をしている。また、能は、一期一会の考え方をもっている。能の公演は、追加公演を行わないようだ。

(2000.10.30)



渋さ知らズの演奏は、ラグビーをやっているようである

渋さは、日本人的なシステムをつくる。普通は、それぞれの各メンバーの自我が強いためソロオーダや長さをあらかじめ決めておかなければならない。渋さは、それらを決めなくても、誰かがソロをとったらみんながソリストを盛り上げようと援護をするのである。自然とシステムが作られる。続いて別の人がソロをとれば、その人に援護する。これを繰り返すのである。これはちょうどラグビーに似ている。また自然とその場にあったリーダができるシステムは、日本人特有のシステムである。

(2000.10.30)



即興演奏と音層

私は、何人かで即興演奏をするときは音層を考えるようにしている。
音層とは、音の層が帯状に流れている状態である。これは、ちょうど音層という白いキャンバスに、いろいろな絵の具をもった即興ブレーヤがキャンバスに色をつける感覚に近い。あまり同じところにみんなが塗っても、濁るだけで、たまには面白いがそれだけでは面白くない。逆にスカスカでも面白くない。バランスをとることが重要である。バランスをとるには、キャンバス全体を見通せるところから、客観的に見ることができなければならない。
また、キャンバスは、常に動いてるから、次にどの色を塗るかを予期していなければならない。予期をするためには、各即興プレーヤの心を読まなければならない。各自が解放されていないと、心を読むことができない。

(2000.10.30)



あなたも渋さに参加しよう!

参加するといっても、楽器を演奏するのではありません。
もちろん渋さは、お客さんから渋さメンバーになった人もいますから、楽器を演奏してもよいのですが...。
とにかくお客さんも渋さの演奏を受動的に聴いているだけではなく、能動的に、時には声を出して、場合によっては灰皿を投げて、聴いていると、もっともっと楽しめると思います。

では、どうすれば参加できるのでしょうか?
実はなかなか難しいのです。経験と努力がいるのです。
渋さのお客さんは、サッカーのサポーターに似ています。 サッカーのサポーターは、サッカーチームにとっては不可欠な存在です。 サポーターなしに勝つことは難しいといっても過言ではありません。 ホームゲームが圧倒的に有利なのは、サポーターの応援があるからです。
サポーターは、サッカーやチームのことを知りつくしています。 ただ肉体的にゲームに参加することが無理なだけなのです。 サポーターは、自分の分身がゲームをしていると思っています。 試合に参加しているのです。だから、盛り上がることが可能なのです。
また選手は、サポーターからエネルギーをたくさんもらっています。 そのエネルギーを使って、相手チームと闘っているのです。

渋さのお客さんもサッカーのサポーターと同じようにすればよいのです。 渋さのメンバーを自分の分身だと思って、演奏に参加すればよいのです。 エネルギーを出してください。メンバーは、そのエネルギーをもらって、いい演奏をします。

演奏中、渋さのメンバー同士は、一種のテレパシーで、コミュニケーションをとっています。演奏中、ネットワークを作っているのです。
そのコミュニケーションのネットワークの中に、たまにお客さんも加わることがあるのです。これははっきりわかります。 このようなお客さんは、すごいお客さんです。場合によっては、メンバーよりもすごいかもしれません。 渋さのメンバーでも、ネットワークに入っていない人はたくさんいますから。

クラシック音楽でも、能動的に聴くことはできます。
クラシック音楽の場合、スコアーがあり、あらかじめ曲を知っていますから、演奏を聴く前に、曲を全部覚えて聴くのです。 自分ならどういうふうに演奏するかをイメージして聴くのです。 そうすると、指揮者や演奏者の解釈が自分の解釈と違っていた場合、ビックリしたり、なるほどと思ったりできるのです。
しかし、クラシック音楽のお客さんは、バンドのメンバーにエネルギーを与えることはなかなかできません。 エネルギーをもらって演奏が変わったりすることはほとんどないのです。なぜなら、スコアーがあり、あらかじめ綿密に設計されているからです。 これはちょうど西欧建築と似ています。即興性がないのです。 これに比べて、渋さなどの音楽は、あらかじめ設計されていません。その場の状況でどうにでも変わる音楽です。 これはちょうど日本建築に似ています。即興性があるのです。
また、クラシック音楽の特にオーケストラにおいては、お客さんとの距離が遠いのです。 渋さの場合は、比較的お客さんとの距離は近いのです。
さらにクラシック音楽の場合、お客さんが声などのコミュニケーション手段を使うことはできません。 静かに聴いていなければならないのです。 これに比べて、渋さなどの音楽の場合、声を出したりすることは自由です。 だからメールスジャズフェスティバルのように1万人以上お客さんがいる場合であっても、お客さんの声援があることで、お客さんとバンドとの距離が近いのです。
このようなことから、クラシックのお客さんよりも渋さのお客さんのほうが、より演奏に参加することができます。
もっとも、渋さを理解しないで、むやみやたらに声などを出して演奏に参加しても意味がありません。メンバーから嫌われるだけです。渋さをしっかり勉強した上で参加しないと楽しめないのです。

では、渋さを勉強するにはどうすればよいのでしょうか?
それは、渋さのメンバーの演奏をたくさん見たり、聴いたり、メンバーと会話をしたりするとよいでしょう。
渋さのメンバーには、バンドリーダーがたくさんいます。バンドリーダーの集まりといってもまちがいではないでしょう。 各メンバーは渋さ以外にもたくさんライブをしているのです。 それらのライブに足を運んでください。そうすれば、理解することができると思います。
そして、渋さに参加しましょう。

(2000.11.04)



ベートーヴェン友の会

最近、ベートーヴェン友の会というグループをはじめた。
ベートーヴェンの曲を中心に演奏をすることを目的にしている。
このような団体はたくさんある。しかし、この会は次の点で他とは異なっている。

1 コンサートホールではなくライブハウス、レストランや居酒屋などで演奏をする。
ベートーヴェンの時代では、このような雰囲気のところで演奏していたと思う。コンサートホールは音はいいが雰囲気は固い。みんなかしこまって聴いている。このようなところばかりで聴くと、何か大学の講義を聴いているような気分になる。もともと音楽はリラックスした環境で聴くのが一番いい。
先日は、かっぱ橋なってるハウスというジャズのライブハウスで演奏した。来月は、高田馬場ライフリー・レストランでのライブがある。赤坂生命体倶楽部という居酒屋でもライブをしたいと思っている。

2 譜面を忠実に演奏するだけでなく、途中、アドリブ(即興)などを入れたりする。
とかくクラシックは譜面に忠実すぎる。確かに譜面が何よりも曲の解釈のよりどころになる。しかし、そもそもアドリブ(即興)は音楽の基本であると思う。アドリブ(即興)のほうがより自然な音楽ができるからである。ベートーヴェンの時代にはアドリブ(即興)で演奏されることが多かったと思う。
ジャズと違って、クラシックの中でアドリブ(即興)をするのは難しい。難しいというより、われわれは学校でクラシック教育を多少足りとも受けたため、クラシックでアドリブ(即興)をすることはできないという観念があるようだ。現に私もまだクラシックでアドリブ(即興)をすることに抵抗がある。しかし、早く観念を取っ払って、アドリブ(即興)ができるようになりたいと思っている。

3 アドリブ(即興)だけでなく、楽器の編成も自由である。
作曲者の選定した楽器に拘束されるのはおかしい。いい曲は、どの楽器で演奏してもいいものである。技術的に難しい場合もあるが、可能であればどの楽器でもトライすべきである。現にバッハの曲は、楽器の指定がないというだけでいろいろな楽器で演奏されている。ベートーヴェンでもバッハと同様なことが可能である。
先日、歌曲を演奏した。本来の編成ではテノールとピアノのところ、トランペット・フルート・クラリネット・バスクラリネット・チューバ・ピアノで演奏した。

はじめたばかりで弱小ですが、少しずつ上記のようなコンセプトでライブ活動を行っていきたいと思います。

(2001.01.27)



テント渋さの効用

今年の夏、3年ぶりにテント渋さをすることになった。
テント渋さとは、メンバー皆でお客さんまでスッポリ入る大きなテントを建設し、演奏しながら全国各地を回る興行である。
渋さのライブだけでも体力を消耗するのに、情宣(ライブの宣伝のため商店街などをパレードすること)、テントの建設、3週間あまりテントや公民館などで寝泊りするなど、とてもきつい仕事である。仕事というより修行である。普通のジャズマンでは不可能と思われる。それは、体力の問題だけではない。ジャズマンが音楽以外、それも現場作業をすることへの抵抗の問題である。これは自己の観念を壊さないとできないことである。
音楽に限らず、自己の観念を壊すことは、メリットが多い。人は、自己を保全する本能(防衛本能)がある。もちろん正当防衛の場面には必要になる。しかし、急迫・不正の侵害がないときでも、防衛本能を出しがちである。これが過剰に働くと、他人に対して怒ったり、ウソをついたりするのである。この場合にはその人が発するバイブレーションは硬くなり、そのバイブレーションを受けた相手は引いてしまう。これに対して、過剰な防衛本能がなくなり、自然体で人に接することができると、バイブレーションが柔かくなり、他人は自分を容易に受け入れるようになる。そうなれば、他人のことがわかるようになり、他人に対してもやさしくなるのである。これは自と他の区別がなくなってきた結果といえよう。
では、自分の観念を壊すには、どうすればよいか。それは自分を捨てなければならない。開き直るのである。人は開き直ったときに力を発揮するというが、これは開き直ったときに心と体の力が抜け柔軟になるからだと思う。
音楽におけるメリットは何か。それは、コミュニケーションがスムーズになることだと思う。即興演奏をグループで行う場合、一番大切なのは、個々のプレーヤのテクニックではない。コミュニケーション能力である。それを養うには、過剰な防衛本能を抑えること、自己の観念を壊すことである。加えて、心身が柔軟になることにより、テクニックまでついてくる。音楽に限らず柔軟性は重要なことである。運動神経の良し悪しは、単に筋力の違いだけではなく実は柔軟性の違いにあるのではないだろうか。柔軟性がつくとテクニックはもちろんのこと、発想力や持久力も増してくる。
テント渋さは、自己の観念を壊すいい修行の場といえる。私自身も第1回テント渋さに参加することをきっかけにこの道に進んだ。それまで法律の世界にいて、自分は優秀だといううぬぼれから防衛本能が過剰だった。まだまだ自と他の区別がなくなったとはいえないが、少なくとも昔よりも柔軟になったと思う。即興能力やトランペットのテクニックもテント渋さ前から比べると、格別に良くなった。私だけではなく、3回のテント渋さでメンバーの能力は格段に上がった。渋さが世界に通用する特異なバンドなのは、テント渋さの存在が大きいと思う。その意味で、テント渋さは、渋さエネルギーの源といえるであろう。

(2001.2.27)



オブジェクト指向

5年ぐらい前から、オブジェクト指向を研究している。
オブジェクト指向とは、コンピュータのシステム分析の方法論である。簡単に言えば、世の中の事象を事物(オブジェクト)に着目して、それぞれのオブジェクトの関係を分析するものである。いくつかの特徴があるが、一番わかりやすいのは、パーツ・ユニット化して考えることである。最近のパソコンは部品がユニット化しているが、これはオブジェクト指向の考え方を使っている。オブジェクト指向についての詳細は、いずれ法律Pageで述べる。ここではオブジェクト指向の簡単な例を示したいと思う。
オブジェクト指向では、まず、オブジェクトに着目する。トランペットを吹くことを例にすると、オブジェクトは、トランペット本体、マウスピース、プレーヤである。それぞれの関係は、並列関係。時間軸上では、プレーヤが息を吐く→プレーヤの唇が振動する→マウスピースに波動がぶつかる→トランペット本体に波動が伝播する→トランペットの朝顔から音が出る、となる。できればオブジェクトの属性や操作、それぞれのオブジェクトの関係を詳細に分析し、図示するのが望ましい。
オブジェクト指向は、あまり世間では知られていないが、システム分析にとどめておくのはもったいない。最近では、UMLとしてビジネス分野でも使われはじめている。ビジネスにおける事務処理ルールの合理化でもオブジェクト指向を応用することができる。私は、特に法律をオブジェクト指向で研究し、法律雑誌に2年ぐらい連載していた。また、音楽、スポーツ、デザインなどシステム分析とは無縁の世界でもオブジェクト指向を使うことができると思う。なぜなら、オブジェクト指向が世の中の事象を分析するものだからである。いろいろな分野でオブジェクト指向による分析をすると面白いと思う。きちんと分析しないまでも、オブジェクト指向を意識するだけで、新しい発見があることだろう。

(2001.3.23)



ヒクソン・グレーシー

今、ヒクソン・グレイシーに興味がある。
前からグレイシー柔術をビデオでみたことはあった。しかし、彼の言動やトレーニング風景までは見たことがみたことはなかった。
実は、ヒクソンと船木の東京ドームでの試合のファンファーレを吹く仕事をした。生でヒクソンをみてそのエネルギーの強さを感じ興味をもったのである。最初に見たのは、テレビだった。前述した船木との試合のテレビだった。印象的だったのは、試合前の呼吸法である。彼は早い呼吸で多くのプラーナを取り入れているようだった。ヨガの呼吸法を知っているなと思った。
次にに見たのはビデオだ。それはヒクソンが最初に来日した時のビデオで、30歳ぐらいだと思う。その中で印象的だったのは、試合2週間前から、sexをしないと言うところだった。エネルギーを保存するためだ。なかなかわかっているなという印象をもった。
次は、3本のビデオを借りてみた。トレーニング風景を写したビデオ、高田との試合のビデオ、私がファンファーレを吹いた船木との試合のビデオである。トレーニング風景もすごかったが、印象的だったのは、次の2点である。
第1に、高田とヒクソンの試合に対する考え方の違いである。高田は自分がヒクソンを倒すことを目標にして試合に臨んだのに対し、ヒクソンは自分が勝利することを目的にしていない。グレーシー柔術が世界に知れ渡るようになるために試合に勝つのである。つまり、高田は自分のために試合をしているのに対し、ヒクソンはグレーシー柔術、ひいては多くの人がグレーシー柔術を学ぶことで皆が幸福になることを願って試合をしているのである。この両者の認識の違いは大きい。この違いを聞いただけで勝敗の行方は決まったようなものである。
第2に、船木戦をヒクソン自身が試合での心の動きを解説しているところである。ヒクソンは、実に客観的に試合をしていることが解説からわかった。客観性をもつことは非常に重要なことである。主観的になると自己防衛本能が強くなり、判断を誤るし、動きも柔軟でなくなる。客観性をもって初めて心身共にリラックスするのである。このことは、格闘技に限らず、トランペットでもそうであるし、法律実務や司法試験などでも同様である。
これらヒクソンのビデオは、客観性といった一般的なことを試合の勝敗という結果がわかりやすいもので示している点で、格闘技に興味がない人にもお勧めである。

(2001.3.23)



マスタとアーティスト

音楽にしろデザインにしろ芸術分野では、作品を作る人は芸術家一種類しかいないと思うかもしれない。しかし、実は、マスタとアーティストがいる。マスタ(ドイツ語ではマイスタ)とは、名人・職人のことで、依頼者の意向を忠実に受け入れ、依頼者が望んでいるモノよりもプラス10%いいモノを作る人である。アーティストとは、芸術家のことで、自分でターゲットを決めて、自分の思うように作品を作る人である。同じ作品を作る場合でも両者は両極端である。
マスタとアーティストの両者をジャズ・トランペッタを例にして比べてみよう。マイルス・デイヴィスはアーティストである。マイルスは器用ではなかった。派手な音を出すことができなかったのである。しかし、ミュートをつけた渋い音を出し、個性を発揮した。数原さんはマスタである。ルパン3世のテーマから金曜日ロードショウのテーマ、いい日旅立ちまで器用にこなす。トランペットもとてもうまい。
作品を作る人は、どちらにもなることができる。しかし、両者を明確に区別しないと、どっちつかずの人になってしまう。現に私は、今まで、この両者の区別がはっきりしなかった。最近、アルバイトでWebデザインの仕事をした。しかし、なかなか依頼者の意向を踏んだ作品を作ることはできなかった。私のいいと思う作品でも、依頼者はいいと言わないのである。何回もやり直させられた。しまいに喧嘩になって作品はボツになった。そのときは、依頼者とは趣味が異なるからしょうがないと思っていた。しかし、その後、チーフディレクタに指摘されて気がついた。私は、アーティストであったのだと。依頼者の仕事をうける場合、マスタにならなければならなかったのである。すなわち、依頼者の意向をしっかり読んで、依頼者が望んでいるモノを作らなければならなかったのである。音楽でも同様のことがいえる。スタジオなどの仕事の場合は、マスタにならなければならない。これに対して、自分のバンドでは、アーティストにならなければならない。
また、チーフディレクタは、私の場合、アーティストに徹するべきだと指摘してくれた。私には、依頼者の意向を読む能力がないようだ。確かに、即興演奏を主体とする私のトランペットはアーティストのトランペットである。マスタのトランペットであれば、作曲者の意向に合った演奏をするトランペットのはずである。私にはアーティストが染みついているようだ。
マスタとアーティストのどちらがいいのか?これは、迷うところである。マスタのほうがお金が入る。アーティストのほうが自由に活動できる。お金か自由かの選択のようにも思える。しかし、これは素質・才能で判断すべきである。たとえ器用で両者ができても、両立は避けるべきである。結局、個性が発揮できず、どっちつかずになるからである。

(2001.4.10)



数学

最近、数学の本をよく読んでいる。

イコール(=)について

数学で多い表現は、AとBがイコール(=)という表現である。
例えば、私が中学生のときに習った数学で三角形の書き方がある。三角形は、普通、底辺を下に書く。しかし、底辺が右にあっても、上にあっても、斜めにあっても、三角形である。底辺が下の三角形=底辺が右の三角形となる。
また、因数分解などの代数は、数式を展開していくが、左辺と右辺はイコールで結ばれていることが多い。
数学の世界を日常に置き換えると、やり方は一通りではないということがいえる。固定観念にとらわれなくなる。一見、違うが実は同じことを言っていることが多いのである。

算数と数学

そもそも算数と数学は全然別の科目である。
しかし、今日の教育では、算数すなわち、計算が苦手な学生は数学も苦手になることが多い。私も計算が苦手だったため、学生時代は数学のうち計算をしなければならない代数が苦手だった。よく計算間違いをして先生にあきれられたのである。考え方はわかっているのに、計算で間違えていると。もっとも、小学生のときから物理・幾何は好きで、よく友人とパズル問題を出し合っていたから、「数学」は好きだったといえる。

「長沼伸一郎著『物理数学の直感的方法 第2版』通商産業研究社、2000年」について


この本は、最近読んだ本の中でもっともcoolな本である。
この本の目的は、第一版への序文の次の文章に現れている。
「…純粋数学そのものにしても…応用という本来の目的を見失った結果、厳密さのみを価値としてもつ巨大な迷宮に迷い込んでいるかの感がある。…
しかし、厳密さにこだわりすぎることは間違っているのではないか、などということを言うのは難しい。大家がそれを言えばもうろくしたと言われるし、若い者がそんな疑念を強く表明すれば、あいつは数学を何だと思っているのかと白眼視され、道を閉ざされてこういう本でも書くしかなくなってしまうに違いない。第一、そんな疑念をもってしまえば現代の数学の大部分を自ら拒否することになってしまう。
…各種の参考書、専門書が出版されているが、これがまたわかりずらい。しかしそれも当然なのであって、うっかりしたことを書くと、同僚の目が恐ろしい。できるだけ厳密に手堅くまとめたほうが、たたりが少なくてすむので、学生にとって理解しやすいかどうかという点がだんだんお留守になるのである。
しかし理由はこれだけではない。それは、簡単に書くということが思いのほか創意を要するにもかかわらず、それが(大家の孫引きで全編うずまった本に比べてすら)ほとんど評価されないということなのである。
長々とした複雑な内容を短くするには、場合によってはそれをヒントに簡約化された概念を新しく考え出さねばならない。壺が大きすぎて決められたスペースに収納不可能なら、別の小さな壺に取りかえるしかない。数学を手短かに解説しようとすると、それはしばしば壺を割って破片をいくつかつなぎ合わせるだけのものに終わってしまう。
とにかくこれはぜんぜん割の合わない仕事であって、そんなことを敢てやろうとするのは、私のような立場にいるものぐらいなものである。私には気にしなければならない同僚の目はない」(前掲書p.6〜7)。

私も法律書を何冊か書いたが上記のような気持ちで書いたので、「そのとおりです」と言いたい。
また法律書を読んでいて、複雑で難しく書いてある本が多いのに気づく。私が書く段になって、できるだけシンプル(プリミティブ)に書こうとすると批判され、場合によっては企画がボツになることもある。なぜ、シンプルではいけないのか。その疑問に答えてくれたのが、ベクトルのrotと電磁気学の章にある次の文章である。
「数学の歴史の中でベクトル解析を築き、公式を書き下した人々は、確かにその意味を知っていたに違いない。しかし、次の世代に伝える時は、なるたけ数学的にエレガントな形で行なうのが普通である。プリミティブな意味というのは、わかってしまえばひどく当たり前で、それをわざわざ伝えるのは、何か間が抜けたように感じられるためである。
しかし人間の頭脳のもつ最大のパラドックスとは、理解することに関しては複雑なことより簡単なことの方がわかり易いが、自分で発想を得ることに関しては、複雑なことより簡単なことの方がはるかに難かしいということである。それゆえエレガントに整形された理論を伝えられた第二世代全部が、もとの簡単なイメージを自分で描き出せるという保証は必ずしもない」(前掲書p.50)。

この本の最終章は、三体問題から複雑系への話が展開される。私が研究しているオブジェクト指向の批判も書いてある。これについては、面白すぎるのであらためて書こうと思う。

(2001.5.28)



風の音

これは、私の知人のHPからの引用である。即興演奏についての心構えが書いてあるので参考になると思って引用することにする。

風そのものに音は無いんだ、と気づいたのは随分昔の事だったように思います。さまざまな形状や大きさの洞窟がたくさんあり、そこに風が吹き込んでヒュウッという音になったり、ゴーッという音を発したりしているわけです。洞窟の反響音は一つ一つ違っています。みんなそれぞれの個性を持っていて、それぞれが自ら風に呼応しているのです。そしてそれらは風が吹くと一斉に鳴り出し、まるで嵐にでもなったかのように私たちの耳には聞こえてくるのです。

これは私がかつて読んだ「荘子」という本の一部からインスピレーションを得て書いたものです。もっとも私が本の内容を正確に理解したわけではなく、ただ自分の持つイメージを膨らませていただけに過ぎません。それにその本を編纂した人が正しい伝え方をしていたかどうかにも疑問があります。しかし、それはともかく私はこの“風そのものには音は無い”という考え方に何か悟りを得たような感銘を受け、妙に気に入っていた事を思い出します。そして、ここに昔の考えを載せる事は、あまり意味のあるものではありませんが、これを読んで何かを感じ取っていただけたら、と思います。

例えば今、数人の音楽家が即興演奏するシチュエーションを考えてみたとします。どのような音楽でも“調和”無しに素晴らしい演奏はあり得ません。もっとも、ここでいうところの“調和”とは、みんなで和気あいあいに楽しむといったものではなく、相手の出した音に対して受け答えをするというような意味です。そのためには相手の音に集中し、即座に反応しなければなりません。考えている時間はありません。相手がいったいどうしたいのか瞬間的に感じとらなくてはならないのです。ところが、その際に自分はこうしたいんだとか、こうするべきだという風に自己を主張し、相手を無視するような態度をとったならばどうでしょうか。せっかくの音による対話も台無しになってしまうでしょう。そこで謙虚になる事が必要なのです。そうする事によって、相手を理解しようとする気持ちが働き、“調和”を得る事が出来るのです。

しかしたとえどんなに素晴らしい演奏をしたとしても、彼らが自分の考えを基にしている事には変わりはありません。なるほど彼らは自分のエゴを抑える術を知っているかもしれません。しかし音楽とは何であるかはある程度解っていても、三界の構造までは知らないのです。(この場合の「音楽の例え」にあたるものは私たちが心を成熟させ、魂の質を向上させる上での通過点にすぎないのです。)

私たちがさらに高い目標を設定し、そこに向かっていくためには神々の意思、すなわち透明な風が吹いている事を意識しなければなりません。風に逆らい、洞窟に蓋をするような真似をしてはならないのです。何故なら神々はすべての魂に慈愛の心を持っておられ、私たちがどうすればよいのかを知っているからです。そして私たちが自分のエゴを滅し、神々の意思が何であるのかを理解した時、初めて私たちは風の音となることが出来るのです。

(2002.2.10)



地味な演奏

能の本を読んだ。
その中で、次の言葉が印象的だった。
「批評家は地味という言い方をされましたが、それは決して派手にやることに対しての地味ではなくて、リアリティがある、芝居に真実感があるということなのです。」(観世銕之丞著『ようこそ能の世界へ』暮らしの手帖社、2000年、p.242)
地味さの中にリアリティがあるということ。これはトランペットの演奏でもあてはまる。
派手なフレーズは確かに面白いが嘘っぽい面もある。受け狙いの洒落や学生向けの演奏ならばいいが真面目にやってしまうと白ける。
日野テルさんが次のようなことを言っていた。
「調子の良いときは調子の悪いときのことをイメージして吹きなさい。」
調子の良いときにその気分のまま吹くとテクニックに走ってしまい音楽性がなくなってしまうので、このように言ったのだと思う。
私は自慢するほどテクニックがあるほうではないので、日野さんのようなことはあまりなく、ただひたすら一生懸命演奏している。ただ、たまによく指が動く時や高音が出る時もある。そのような時は日野さんの言葉を思い出す。
ちょっとうまく吹けるようになると、自分は上手だと勘違いしてしまい謙虚さを失いがちである。謙虚な心がリアリティある演奏につながる。謙虚な心を忘れないようにしたいと思っている。

(2002.2.12)



ヨガ・気功のお勧め

私はトランペットを吹く上で重要なことは次の3点であると考えている。
  1. 客観性
    常に自分を客観的にみるようにすることで、心が安定し、ミスがなく、想像力にとんだいい演奏ができる。持久力もつく。
    また、肯定的思考をするようになる。いい演奏をするには肯定的思考は不可欠である。

  2. 柔軟性
    スポーツでも重要なこと。トランペットでも特に肩・喉・唇に力が入るといい音が出ないし、いい演奏ができない。
    これは上記の客観性とも関係する。心が客観的であれば、肉体は柔軟になるし、肉体が柔軟であれば、心が客観的になる。

  3. 腹式呼吸
    正しい腹式呼吸をすることにより、たくさん吸うことができ、たくさん吐くことができる。たくさん吐くことができれば、大きな音・高い音・安定した(揺れない)音が出るようになる。これも客観性・柔軟性と関係がある。
以上3つはそれぞれ次のように関係する。精神面は客観性、肉体面は柔軟性、方法面は腹式呼吸で、客観性>柔軟性>腹式呼吸の関係にある。

これらはトランペット奏者以外の人にも有効である。
  1. 客観性をもつと、感情の起伏がなくなり心が安定する。むやみに怒ったり悲しんだりしなくなる。対人関係も楽になる。疲れなくなる。また、肯定的思考も社会生活をする上で重要なことである。
  2. 柔軟性をもつと、運動能力が向上する。また、心も変化する。すなわち、観念的でなくなる。人には自己防衛本能があるが、これを制御し、自己にとらわれないようになることができる。
  3. 腹式呼吸も健康な生活ができる。また上記2つの習得にも必要である。

これらをマスタするには、専門的な訓練が必要である。
私は、上記3つをマスタするためにヨガ・気功のトレーニングをしている。ヨガ・気功を両方とも客観性・柔軟性・正しい呼吸法をマスタするための技術がすべて含まれている。
しかし、なかなか技術力と授業料が安いという両方を備えたヨガ・気功教室はない。技術力があれば授業料が高いし、安い授業料のところは技術力がないところがほとんどである。

私は個人的に先生についている。 私のTp教室でもヨガ・気功の先生を招いてレッスンをしたいと考えている。 対象者は、トランペットプレーヤーだが、一般の人も興味があれば、レッスンを受けられるように配慮したいと思っている。

(2002.2.20)



渋さ知らズのサッカー理論

冬季オリンピックも終わり、次は、いよいよ日韓開催のワールドカップである。前回のワールドカップの開催期間中、渋さ知らズは、初めての海外ツアーに行った。開幕戦のブラジル・イングランド(?)戦をウィーンのカフェで見たのをよく覚えている。
第1回EURO渋さ前に音作りをする上でメンバーに提唱した理論があった。それがサッカー理論である。ちょうどワールドカップでサッカーが盛り上がっていたので、パラレルに考えることができる理論を思いついた。
サッカー理論とはどのような理論であるか。その前にジャズにおいて一般的な演奏スタイルと渋さの演奏スタイルの違いを述べておこう。
一般的な演奏スタイルは、「テーマ→複数のアドリブ→テーマの再現」である。アドリブは、基本的に演奏者全員で行なう。アドリブ中はリズム楽器以外の人(サックスやトランペットなどの演奏者、いわゆるフロント)は舞台後方や舞台ソデにいる。狭いライブハウスなどではその場にいることもあるが、他のアドリブに関与しないのが普通である。
これに対して、渋さの演奏スタイルは、「テーマ→複数のアドリブ→テーマの再現」は基本的に変わらないが、アドリブ演奏中の対応が異なる。すなわち、アドリブ演奏者以外のフロントも演奏に加わるのである。もちろんアドリブとは違った形で加わる。多くはリズムに回る。場合によってはオブリガートやメロディを演奏する。時々アドリブが別のメロディに飲まれることもある。渋さの次の演奏を予期できない緊張感や場面展開のすばやさは、実はここに秘密がある。
これとサッカー理論との関係は、サッカーのスタイルの変化とも関係がある。
サッカーのポジションは、フォワード、ミッドフィルダ、バックス、そしてキーパである。私がサッカーをしていた頃は、各ポジションの役割分担がはっきりしていた。フォワードはディフェンスをほとんどしないし、バックスはオフェンスをほとんどしない。しかし、近年のサッカーでは、フォワードもディフェンスをするし、バックスもオフェンスをする。役割分担がはっきりしなくなったのである。そのため、ゲーム中、常に動いていなければならなくなり、それに耐えられる体力が必要になった。日本でもディフェンスができるフォワードでないと生き残れないようになっているようだ。
これに対して、ジャズでは、あいかわらず役割分担がはっきりしている。フロントの演奏者はリズムを出すことはほとんどない。他の奏者のアドリブ中はソデでタバコを吹かしている。ところが渋さ知らズのフロントは休みがない。常に音を出している。もちろんメリハリをつける上でソロになったり、楽器の数が少なくなったりして、音を出していないこともある。しかし、音を出していないときでも休んだりはしていない。常に音楽に参加している。これによって、音楽がフレキシブルになるのである。
そこで、音がフレキシブルになると、次の展開の予想がしにくくなる。一般的なスタイルで演奏すれば、「32小節アドリブをしたら次に移る」などど予想することができるが、渋さでは、次にどう展開するのかがわからない。そこで、アイ・コンタクトが必要になる。アイ・コンタクトをするためには、全員の音が聞こえるだけではなく、全員が見えるようにすることが必要である。そこで、舞台での位置関係も重要になる。つまりポジショニングが重要になるのである。
このようにフォワードもディフェンスをする全員サッカーやアイコンタクト、ポジショニングなどのサッカーの理論とパラレルに考える理論がサッカー理論である。
今年もワールドカップ前後にEURO渋さがある。ワールドカップが盛り上がるにつれ、渋さのサッカー理論を思い出し書いてみた。

(2002.2.26)



即興演奏について

即興演奏をすることが多い。
譜面や合図なしに2人〜10人もの人と演奏をする。
こんなことは可能なのか?
可能である。
ではどうやって?
共通の音楽イメージを作り演奏する。
そのイメージの世界にみんなが入ることが前提である。
その世界は、現象界とは異なり、時間と空間の制約がない。
音楽は、現象界では時間軸で流れているが、イメージの世界では、初めと終わりがつながっている。
それゆえ、それぞれの出そうとする音を予知することができる。
音は層のようになっていて(音層と呼んでいる)、その層にそれぞれの音をどう記録するかにかかる。
そのイメージの世界では、即興演奏者は潜在意識が出る。
それぞれの意識はイメージの世界ではつながっていて、それぞれの意識はOPENだから、それぞれ意識がわかってしまう。
その意識は、その人の状態によって異なる。
ある人は、地獄だったり、動物だったり、光が見えることもある。
即興演奏は、潜在意識の表れである。
オーディエンスは、現れた潜在意識に共鳴する。
常連のオーディエンスは、演奏者と潜在意識が共通する場合が多い。
即興演奏をするときには、次のようにするよう心がけている。
私の演奏する音楽は、自分の音楽だとは考えていない。
私は、なにか客観的なもの(神様でも何でもいいが)から与えられたDATAを忠実に客観的に伝える伝達者だと思っている。
私が即興演奏をする目的は、演奏者やオーディエンスに良いDATAを聴いてもらい、共鳴してもらうことである。

(2002.8.26)



Ninja Jockeyの音楽

Ninja Jockey(NJ)は、私がオリジナルのPCソフトである。
ちょうどDJブースが10個あるようなもので、waveファイルを使う。
waveファイルを使うソフトとして、有名なものではACIDやLIVEがあるが、NJがこれらと違う点は、次のとおりである。
  1. 縦と横をきっちりと揃えない点である。
    縦については、音程がない。フリケンシーで周波数を自由に変えることができる。
    横についても自由である。小節がない。敢えて、テンポを揃えない。
    ステレオの右左に振るPANも自由に変えられる。
  2. リアルタイムで作る。
    LIVEはリアルタイムで作るが、ある程度あらかじめ決めておくことが多い。
    NJは、完全にリアルタイムの即興である。
    縦と横が自由であるから、ボタンを押したり、マウスをクリックするタイミングで音楽が変わってくるのである。
  3. ソースの周波数を変えて使うのが一般的である。
    ソースは、テンポや音程を合わすことはあっても、ソースのイメージを変えることはないのが通常である。
    NJは、通常、周波数を変えて使うから、テンポや音程が異なってきて、ソースのイメージを変えて使う。
    例えば、テクノのリズムも周波数を低くすれば、雅楽のように聞こえるのである。

これらのNJの特徴を使って、私は次のような音楽を作りたいと思っている。
  1. 縦に自由な音楽。すなわち、音程が12音で決まっていない音楽。
  2. 横に自由な音楽。すなわち、リズムがきちっと合っていない音楽。ズレている音楽。

ちょうどガムランのように、いくつも異なった音程やリズムが重なって、唸りが出る音楽である。
最近のクラブミュージックは縦と横がきちんと揃ったものが多い。コンピュータなど使えばなおさらだ。
しかし、ずれている音楽のほうがナチュラルだと思う。ライヴ演奏が盛り上がるのも、ずれている音楽のほうが訴えかけるものがあるからではなかろうか。
私の参加している渋さ知らズも相当にズレている。しかし、そのほうがパワーがあるようだ。
また、これは推測であるが、武満徹が求めた音の世界に近いかも知れない。武満はオーケストラなどを使って試みたが、12音の楽器では、楽譜が複雑になるし、演奏も難しい。
しかし、NJでは簡単にできる。
このようにNJは、私の追及する音楽を作るうえで重要なToolになっている。
なお、上記の特徴をもった音楽を聴いていると、右脳が活性化するようである。
整った音楽ではないので、情報量が非常に多い。
複雑系である。
そのため、あまりの情報量で開き直り停止した左脳に代わって、右脳を使うことになる。

(NJの演奏ビデオは、こちらをご覧ください。また、ライヴ会場などで、Ninja Jockey2002というCD-Rを販売しています。興味ある方は、こちらにメールください。)

(2002.12.23)



即興演奏

これから気の向くままに即興演奏について書いてみようと思う。
私は、いわゆるジャズ・トランペッターに分類されているようだ(私自身は、ジャズに限らず、クラシックなどいろいろな音楽も演奏したいと思うのだが)。
ジャズ・トランペッターは、即興演奏をする機会が多い。
特にフリージャズも守備範囲に入れている場合には、コードやリズムすらもない即興演奏をする。
ソロで演奏する場合もあるが、多くは複数で演奏する。
共演する楽器もさまざまで、ジャズに一般的に使用される楽器のみならず、バイオリン、 チェロ、チューバ、アコーディオン、三味線、尺八、和太鼓、小鼓、大鼓琵琶、琴などとも共演する。
共演者はミュージシャンに限らず、ダンサー・画家・写真家・役者などとも共演する。
上記のような活動をしている音楽家が即興演奏についての文章を書くことになる。
そのため、学問的な要素はない。
文献も最小限にとどめ、私の体験的な考えを中心に書いていこうと思う。
これから気の向くままに即興演奏について書いてみようと思う。
私は、いわゆるジャズ・トランペッターに分類されているようだ(私自身は、ジャズに限らず、クラシックなどいろいろな音楽も演奏したいと思うのだが)。
ジャズ・トランペッターは、即興演奏をする機会が多い。
特にフリージャズも守備範囲に入れている場合には、コードやリズムすらもない即興演奏をする。
ソロで演奏する場合もあるが、多くは複数で演奏する。
共演する楽器もさまざまで、ジャズに一般的に使用される楽器のみならず、バイオリン、 チェロ、チューバ、アコーディオン、三味線、尺八、和太鼓、小鼓、大鼓琵琶、琴などとも共演する。
共演者はミュージシャンに限らず、ダンサー・画家・写真家・役者などとも共演する。
上記のような活動をしている音楽家が即興演奏についての文章を書くことになる。
そのため、学問的な要素はない。
文献も最小限にとどめ、私の体験的な考えを中心に書いていこうと思う。

1 定義

即興演奏というと、よくデタラメな演奏だとか自分の本質を表現する演奏とかいったことが言われることがある。
しかし、実はとても精細な演奏であるし、受動的な演奏である。
このように書いても即興演奏の本質がわからないと思う。
そこで、即興演奏について、私が考える本質的な定義を述べる。
即興演奏とは、演奏によって、人間間で、データ交換を行うことである。
データ交換について説明しよう。
人間は他人と関係性をもつことで、社会生活を送っている。
その関係性は、合一の方向に向かう。
人間は、一体化したいと思う欲求がある。
たとえば、Sex、格闘技、バンド演奏、サッカーの応援、家庭、学校、国家など合一の例 はたくさんある。
合一の過程で行われるのがデータ交換である。
データ交換は、それぞれの人間が持っているデータを他人から受信し、他人に送信する作業である。
データの共有を図ることで、合一が促進される。
データ交換は、言語だけでなく、動作やテレパシーなどのエネルギーの流出で行われる。
即興演奏の場合のデータ交換方法は、音、動作、テレパシーである。
音によるデータ交換が主流であろう。
即興演奏でのデータ交換の相手は、演奏者がひとりの場合は演奏者、聴衆、場所であり、 演奏者が複数の場合は他の演奏者も相手になる。
データ交換は、データを受信から行う。 受信したデータを無意識的に分析して、自分のデータを送信するのである。 それゆえ、まずは受動的なふるまいをすることになる。
データは微細なものである。
自分を覆っている殻を排除し、ピュアにして受信しなければならない。
送信についても、ピュアなデータを送信しなければならない。
なぜなら、邪念があると、データの真実性がないからである。
真実性のないデータは、データ交換の対象にならないのである。
それゆえ、データ交換は繊細にならなければならない。

2 目的

即興演奏の目的は何か。
データ交換で合一し、幸福追求することである。
前に述べたとおり、人間には合一の欲求がある。
合一することで幸福になろうとする。
では、幸福とは何か。
これは、いわゆる幸福論で議論されるようにとても難しい概念である。
私は、最終的な合一が幸福であると考える。
最終的な合一とは、すべてはひとつになることである。
そのためにデータ交換で合一にベクトルが向き、人間は幸福を目指すのである。

3 即興演奏と即興でない演奏との違い

即興演奏以外の演奏でもデータ交換により合一を目指している点では同様である。
即興演奏と即興でない演奏との違いは、程度の問題ということになる。
即興演奏にも即興のウエイトによって、程度の問題がある。
すべてを即興で演奏する即興演奏を完全即興演奏といい、それ以外を部分即興演奏という。
部分即興演奏は、ジャズのアドリブ、クラシックのカデンツァなどの曲の一部に即興部分がある演奏 である。
即興でない演奏は、すべて楽譜で書かれている演奏のことである。
この場合でもテンポ、アーティキュレーション、強弱などで表現の余地があり、その範囲でデータ交換 が行われることになる。
ただ演奏者は、譜面に書かれているデータを第一に受信することになる。

4 即興演奏の歴史

もともとプリミティブな音楽では、即興演奏が主体である。
中世ヨーロッパにおいては、宮廷音楽においては即興が主流であったし、教会音楽でも即興によるオルガン演奏が盛んであった。
その後、音楽が大衆化するとともに大勢の人に聴かせる必要性から、オーケストラなどによる大人数の演奏が行われ、楽譜を使用するようになった。
楽譜の登場とともに即興演奏は衰退した。
大人数で即興演奏をする困難さとともに、即興演奏は、楽譜による演奏よりも高度な技術が必要になる反面、その技術を教授するシステムの確立が難しいのが衰退の原因だと考える。
しかし、現代音楽においては、即興演奏が見直されるようになってきた。
新しい音楽を模索する作曲家が楽譜による演奏の限界を感じたのだろうと思う。
民俗音楽においては、即興的要素が西洋音楽よりもはるかに多い。
民俗音楽の中には、プリミティブな音楽が残っているからであろう。
いわゆるポップスの分野においては、ジャズ、一部のロック、ヒップホップやテクノなどで即興演奏が行われている。
音響装置の発達により、大勢の人に少人数でも演奏を聴かせることが可能になったことが即興演奏を可能にしたと考える。
このように考えてくると、やはり音楽の本質には即興性があると考えざるをえない。
即興演奏の衰退は、大勢の人に演奏を聴かせる必要性にあったからだ。
即興による演奏がもっとも聴衆とのデータ交換が多いことからすれば、本質的観点からも当然の結果であろう。

5 即興演奏の方法

(1) データ受信

即興演奏をするには、まず外界のデータをたくさん受信することからはじまる。
そのためには、自己と外界を隔てている殻を壊す必要がある。
人間には、自己を守ろうとする本能(自己防衛本能)がある。
自分の中に外界のモノを入れようとすると拒絶反応を起こす。
確かに、自己防衛本能は生きるためには必要なモノであろう。
しかし、即興演奏においては、まず外部のデータをできるだけたくさん受信する必要があるから、自己防衛本能を壊す必要がある。
本能に反することをしなければならないから、この作業はとても大変なものである。
具体的にはどうすればよいか。
開き直れるまで、精神的にも肉体的にもキツイことをするのが一番早いと思う。
人間は、キツイことしているとき「もうどうなってもいい」と思う限界点がある。
この限界点を過ぎたとき、とても楽になることを感じた人もいると思う。
楽になった瞬間、いままでわからなかったことがわかるようになった経験がある人もいるであろう。
実は、この限界点を超えると自己と外界を隔てる殻を壊すことができ、外界のデータを大量に受信できるのである。

(2) データ分析

つぎに受信したデータを分析することになる。
この分析は、無意識に行われる。
すなわち、脳の奥の部分、いわゆる爬虫類の脳において行う。
この分析は瞬時に行う必要があるため、他の脳では処理が間に合わないからである。
ここで、この分析の内容を書くことはできない。
なぜなら、非言語領域における分析を言語で記述することはできないからである。
少なくとも、この分析にはピュアな心が必要といえる。
無意識に分析がなされるため、ピュアでないと自己に都合のよい解釈がなされる恐れがあるからである。
それゆえデータ受信・分析においては、いずれも自己防衛本能をなくすトレーニングが必要になる。
人は、邪念が生じやすいものである。
それはプライドであったり、愛着であったり、欲望であったり、嫌悪であったりする。
ピュアな心をもつのは相当に大変なことである。
またピュアになればなるほど、外界の変なデータも受信するから、調子が悪くなったり病気になったりしやすくなる。
それゆえ、常にデータクリアをしなければならない。
このデータクリアの作業も大変である。
熱によって燃やすのが一番はやい。
即興演奏は、ピュアな心をもってするのが一番いいのだが、もちろん、ピュアな心の状態 での即興演奏だけが即興演奏ではない。 ただデータ受信と分析が難しくなることは確かである。 データを受信・分析が不十分だと、自分勝手な演奏になりがちであるし、最後には即興ができなくなることもある。

(3)データ送信

データの送信には、演奏技術が必要だ。
トランペットならば、自分の分析したとおりのデータを送信できるトランペットのテクニックが必要なのだ。
そのために日々トランペットのトレーニングをする必要がある。
NJは、トランペットに比べればはるかに簡単だ。
それゆえ自分の分析したデータを送信しやすい。
また送信には、お客さんに自分をさらけ出す度胸(開き直り)も必要だ。
これも自己防衛本能があると上手く送信できない。
このプロセスでも、自己防衛本能を壊す必要がある。

(2005.04.02)



死について

最近、「男たちの大和 YAMATO」、「硫黄島からの手紙」や、特攻隊を描いた「俺は、君のためにこそ死にに行く」など太平洋戦争の映画が上映されている。
思えば、私が小学生の頃は、テレビでよく、戦争映画やドキュメンタリーなどを放映していた。
つい最近までは、戦争モノはあまり放映されなくなったように思う。
死について、真剣に考えるには、このような戦争映画は格好の教材だ。
ただドンパチやるだけの映画では意味ない。
テレビゲームも死についてのリアリティがない。
子供の頃、よく戦争映画やドキュメンタリーを見ていた。
特攻隊は子供心に衝撃的だった。
高校生のときに、吉田満著「戦艦大和ノ最期」を読んだ。
とても感動した。
中学生のときに、三島由紀夫を全巻制覇した後は、現代小説を読むことができなかったが、 「戦艦大和ノ最期」は別だった。
「葉隠」も、その頃読んだ。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」というところから始まる本だ。

死について考えるのは、とても重要だ。
生きる意味を深く考えることができるからだ。
最近、死について考える機会が少ないように思う。
機会が少ないと、考えない。
考えないと、死に直面したとき、準備ができないから、パニックになる。
死について考えていないことが、自殺や殺人などの要因のひとつになっているようにも思う。
最近は、家族が少なくなり、また医療技術の進歩によって、身近な人の死にもなかなか遭遇しなくなった。
戦争映画に期待しよう!

(2007.05.24)



いじめについて思うこと

いじめによる自殺が続いた。
私の子供の頃もいじめはあったが、自殺する子供はいなかったと思う。
いじめがあっても、周りの人が助けたりしたものである。
必ず誰か1人は、いじめられる子供の味方になった。
私もよくいじめられた子供の味方になったりした。
昔から、人と違うことをするのが好きだったようだ。
人とは違ったものを好きになること、人とは違った考え方をすることは、いいことだと思っていた。
人から変わっている」と言われることは、ほめ言葉だと思っていた。
変わっているから、新しい発見や発明、芸術が生まれると思っていた。
小学生の頃、私は、物理学者になってノーベル賞をとるのが夢だった。
今の子供は、「変わっている」といわれることに対して、どう思うのか。
あまりに度のすぎたいじめの場合は、クラスの多くがいじめられた子供をかばった。
過度のいじめがあるのに放置することは、実際にいじめているよりも問題があると思う。
先生は、いじめている人のみを叱るであろう。
いじめた人といじめられた人のみを指導するであろう。
しかし、本当に指導すべきなのは、過度のいじめがあるのに見て見ぬ振りをしている多数なのである。
放置したという不作為に責任ありとして、いじめた人といじめられた人以外のクラス全員を処分すべきである。

(2007.05.25)



最近の刑事裁判について

最近、刑事裁判についての報道が目立つ。
それも刑事裁判に対する批判的な報道である。
たとえば、先日サンデープロジェクトで放送された「人質司法と自白強要」、 最近の映画「それでもボクはやってない」など、 裁判として、痴漢裁判、医療過誤裁判(最近読んだ「医療崩壊」という本は面白かった)、堀江・村上裁判などである。

私も法律を学んだ身として、刑事裁判、いや司法が何か変であると感じている。
戦前のように思想的な背景で、変になっているのではない。
それぞれの法律家の思考方法の問題だと思う。
すなわち、「答えは一つ」と決め付ける画一化した思考方法である。
もちろん、裁判では様々な可能性を考えているのであろう。
しかし、根本的に「答えは一つ」と考える思考方法が最近の法律家にはあるように思う。

もっと想像力を使えば、いくつもの答えを見つけることができるのではなかろうか。
それゆえ、自白を強要され、警察官の面前調書(員面調書)を信用し、 その筋書きのとおり検察官は起訴し、裁判官は判決をする。
有罪率が99パーセントというのも驚きである。

法律家の思考法がこうなった原因の一つに、大学の共通一次試験、センター試験、 司法試験の短答式試験のような択一試験がある。
択一試験は、複数(通常は5つ)から1つを選択して答えを出す試験である。
このような試験をすると、試験では一つの答えを探し、 学習の過程も答えを一つ見つける勉強をするようになる。
答えが複数ある可能性を探る勉強をしなくなるのである。
テキストも通説・判例をコンパクトにまとめたマニュアル本を使う受験生がほとんどであろう。

この傾向は、法律家のみならず、最近の日本人に共通する問題である。
マニュアル本やテレビゲーム(ロールプレイングゲーム)がもてはやされているのも、これである。

人権の最後の砦である裁判制度がこのような状況では、日本の社会は暗い。
原因が教育にあるとすると、なおさら根深い問題である。

(2007.05.30)



介護・医療の人手不足

最近、介護・医療の人手不足がニュースで言われている。
介護士は、仕事がキツイわりに給料が安いのが原因のようだ。
医者は、大都市の大病院に殺到し、過疎地に医者が少なく仕事がキツイこと、 医療過誤などで訴えられやすい外科・産婦人科などが避けられること、 産婦人科や小児科などは、精神的・肉体的にキツイことが原因のようだ。

しかし、介護・医療の人手不足の根本原因は、 現代日本人の奉仕精神の欠如にあるのではないか。
奉仕の精神は、資本主義が悪い方向に進んだ場合に起こる拝金主義に対立する。
拝金主義者には、奉仕の精神が欠如する。
今の30代の一部には、拝金主義者が多いように思う。

もちろんビジネスに成功することは、悪いことではない。
しかし、成功して得た利益の一部は、寄付などを通じて社会に還元すべきである。
アメリカの大富豪は、たくさん寄付をしていると聞く。
最近日本で、このような話をまったく聞かない。
奉仕の精神が欠如することは、国家・民族・社会にとってマイナスである。

また、最近は、特にお金を持っている人が偉いというような風潮がある。
格差社会という言葉は、このことが前提になっている。
士農工商時代の日本人の精神では、お金を持っている=偉いという構造にはなっていなかった。
確かにお金を持っているとある種の権力はあるが、金持ちも謙虚であったと思う。
「金持ちで申し訳ない」、「社会に還元しましょう」という精神があったのではないか。

それゆえ、そうした精神を欠如した悪徳商人などの話が、江戸時代にはたくさん見られる。
金持ちは、もっと謙虚であるべきである。
社会に対して申し訳ないという気持ち、社会に奉仕する気持ちを持つことが必要ではなかろうか。

貧乏人ミュージシャンの私がこのようなことを言うと、貧乏人のひがみと思われるかもしれない。
しかし、私は、お金よりももっと価値があるものがあり、そちらを優先しようと思ったからこそ、 お金にならない音楽をやっているのである。
私にも今まで、お金持ちになるチャンスは何回かあったが、それをあえて断ってきた。

確かに、私の音楽は、アカデミックなものではないかもしれない。
しかし、私が生きていた時代の文化として、後世に残して行きたいと思っている。
文化は、人間の記録だ。
過去の人間が命がけで守ってきたものを後世に渡すという一種の社会奉仕だと考える。

介護・医療の話に戻そう。
奉仕の精神があれば、お金儲からなくても、 命を懸けて介護や医療の現場に身をおくことができるであろう。
医者になれば、お金持ちになると考える学生がいれば、それは間違いであると考えるべきである。
もちろん、キツイ仕事であり、社会に多大な貢献をしているのであるから、たくさんお金を貰ってもいい。
ただ、奉仕の精神、謙虚な心は、失わないでほしいと思う。

(2007.05.30)





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